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日本飛行機の父 二宮忠八

近代日本を作った男たち 第26回

Takemura

二宮忠八

大空へのあこがれ

古代エジプト神話の神は鷹であり、アテネの聖鳥はフクロウであった。このことは、古代の人々にとって空を飛ぶ鳥は神であったことを示している。

ギリシャ神話に出てくるイカロスは、父が発明した翼をつけて空を飛び、迷宮から脱出したが、高く飛び過ぎて途中でろうで囲めた翼が太陽の熱で溶け、海に落ちて溺れてしまう。これは、人間が空を飛ぶことは神の意思に反することを示しているのではないか。

しかし、このような神話にもかかわらず、人々は鳥のように自由に空を飛びたいと考え、様々な試みをしてきた。初めは、翼をつけて高い塔から飛び降りるという手段が一般的であった。

もちろん、多くの人々が命を落としたり、大怪我をしている。ヨーロッパの民関伝説に現れる「魔女」がホウキに乗って空を自由に飛び由る姿も、空へのあこがれが生んだ空想といえよう。

15世紀に、レオナルド・ダ・ヴインチが羽ばたき機(ヘリコプターのようなもの?)のスケッチを残しているが、実験したことはなかったようだ。現在の飛行機の姿を最初にイメージしたのは、イギリスのジョージ・ケイレーといわれる。

彼は1849年に世界最初の複葉グライダーを作り、地面より数メートル上を滑空した。その後、何人かの人々が実験を試みたが、1903年アメリカのライト兄弟の飛行成功によって、人類は本格的な飛行機時代を迎えることになる。

兄弟はその前年、全重量370キログラム、12馬力のモーターを積んだ飛行機の制作にとりかかり、翌年12月17日にノースカロライナ州でこれを飛ばし、人類初の有人動力飛行に成功したのである。

ところが、このライト兄弟より10年も早く、飛行機原理を構想し、実際に飛行実験に成功した人物がいた。日本の二宮忠八である。二宮はカラスが羽根を広げて滑空する姿にヒントを得て、ゴム動力の飛行機を飛ばすことに成功したのだ。

ライト兄弟より早く

二宮忠八は1866年、現在の愛媛県八幡市に商家の4男として生まれる。生まれた頃は家が裕福であったが、12歳の時父親が亡くなり、家は困窮した。そのため忠八は町の雑貨店や印捌工場などに働きに出たが、勉学精神は強く、物理学や化学の本を夜遅くまで読みふけっていた。

忠八はまた、学資を得るために「忠八凧」と呼ばれる奇抜な凧を作って売ったが、この八は大変な人気を博したという。この経験は後の飛行機作りに役立った。

明治20年、21歳の時、陸軍に徴兵されたが、2年目のある日、忠八は野外演習の時に、滑空しているカラスは羽ばたいていないことに気づく。そして、翼で風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた。これが国定翼で向かってくる風を受けとめる“飛行原理”を発見した瞬間であった。

この日から、忠八は飛行機の研究に没頭。1年後ついに「カラス型模型飛行器」を完成させた。これはゴム動力の4枚の羽のプロペラと3つの車輪をもった飛行機であった。実験ではの自力滑走の後、離陸して10メートル飛んだ。日本初のプロペラ飛行機の成功であった。

その2年後、忠人は有人飛行を前提にした「玉虫型飛行器」(翼幅2メートル)を制作する。ただ動力源については課題が残った。1894年に始まった日清戦争に従軍した忠八は、上層部にこの「玉虫型飛行器」の有効性を訴えたが、ことごとく却下されてしまう。

こうしているうちに1903年、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。忠八がこの事実を知ったのは1908年のことである。やがて、忠八の先見性や独創性は、ライト兄弟よりも時期的に早かった、という評価が広まり「日本飛行機の父」と呼ばれるようになった。もし、陸軍上層部にもっと明敏さがあれば、忠人は「世界飛行機の父」となったかもしれない。

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