竹村男塾

印刷する

原敬の堂々たる人生

近代日本を作った男たち 第7回

Takemura

原敬

薩長閥に強い反発

江戸時代にあった「士・農・工・商」という名の身分制は、明治維新によって消えた筈であった。しかし、実際は維新を主導した薩摩藩と長州藩が上位に立つ、新たな制度が成立した。

原敬は東北 3県(岩手・青森・秋田)を治めていた南部藩家老の次男として生まれたが、南部藩が反朝廷側に立って、薩長の政府軍と戦って敗れ、賊軍となって没落したため、新たな差別に苦しんだ。

「白河以北一山百文」といわれるように、朝敵の東北諸藩は薩長出身者からさんざん隅笑され、侮蔑された。

原が後に「平民宰相」と言われるのは、薩長への強い反発から、平民として生きる決意をしたことに由来する。が、原自身はかつての家老職の家柄に強い執着と自負心を持ち、このことが宰相にまで登りつめた原動力になっていたことは間違いない。従って、法的には平民になったが、卑下することはなく、堂々たる人生を送ったということができる。

ただ、その誇りが時に原を苦しめることになる。学問で身を立てる決心をした原は司法省法学校(後の東大法学部)に入る。朝敵出身であっても、学問や実力では負けない、という思いが強かった。入学後に入った寄宿舎で待遇改善運動が起こった時、原はその先頭仁立って戦った。

しかし運が悪く、校長が薩摩の出身であったため、結局、退学させられてしまう。法学校を退学した原は郵便報知新聞社に入社し、フランス語新聞の翻訳や論文の執筆などの仕事を担当した。だが、ここでも薩長出身者が幅を利かせており、原は関職に追いやられる。

さらに運が悪いことに、明治14年の政変(大蔵郷・大隈重信が政府中枢から追放された事件)をきっかけに、大限の一派が新聞社に乗り込んでくると、原は彼らと対立し退社してしまう。

ただ、郵便報知新開社を辞めた原に思わぬ幸運が舞い込む。明治15年、原は外務省に採用される。そして第2次伊藤内閣の農商務大臣に陸奥宗光が就くと、原は外務次官に抜擢された。

大正デモクラシー

睦奥によって出世の階段を登りはじめた原はその後、政党政治家として活躍し、ついに1918年(大7)、首相にまで登りつめる。この原内閣は日本初の政党内閣であった。つまり、それまで主として薩長出身の特権階級で占められていた首相の座を、衆議院に議席を持つ政党の党首が奪取したということである。

原は首相に就任すると、その卓越した政治力と指導力を発揮して、次々と改革を実行する。軍事より産業の重視、対米協調、高等教育の拡充、政党の支配力強化などが中心であった。

改革を進める中で、原が最も気を使ったのは、元老山縣有朋との衝突回避であった。山縣が原の人間性を認めたことは日本にとって幸運であった。しかし、この原の政策を快く患っていない集団があった。軍部である。そして3年後の1921年、右翼の青年によって暗殺される。

この暗殺を機に、自本の軍部の暴走が始まり、太平洋戦争の敗北まで続く。

原の功績は、次の 2点に集約できるだろう。

①藩閥政治を国民(政党)の政治に変えたこと
②経済こそ日本の進むべき道とし、健全な市場原理を導入した

このような画期的な政治は人間性とリーダーシップが基礎になっている。とくに、人の上に立つ者は人間性に優れていなければならない、という信念は、彼の愛した次の言葉によって証明される。

宝積(ほうじゃく)」である。
「人に尽くして報酬を求めない」という意味である。

また、こんなエピソードがある。原の第1の“子分”と言われたのは武藤金吉(通称ムトキン)であったが、ある時、武藤がそろそろ大臣にして欲しいと願い出た。しかし、原は「大臣というものはそれなりの人格と人柄が必要である」と言って認めなかった。今日の日本のリーダー達はどうだろうか。

キーワード