竹村男塾

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豊田佐吉の「発明は天命」

近代日本を作った男たち 第17回

Takemura

豊田佐吉

女神たちの機織仕事

機織りの歴史は古い。紀元前8000年頃にには手織りの布が出現したという。日本では縄文後期から始まり、弥生時代に本格化したといわれる。

古事記には、天照大神をはじめ幾多の神々が機織り小屋で神衣を作っていたとある。機を織るという仕事はかなり忙しい仕事である。また、日本の神の中心である天照大神が女性であることから、機織りは女性の仕事と見なされている。機織りが主に女性の仕事という認識は世界中の絵や写真でもうかがい知れる。

機織りをする道具、つまり織機は入力で織る手織り機と、機械の力で織る力織機がある。手織り機は18世紀末まで続いたが、1785年にカートライト(英国人)が力織機を発明した。これ以降は力織機が織物生産の主役となった。しかし、機械ではできない風合いや色合いを表現するための織物は、今でも手織機で作られる。

筆者が子どもの頃、父親が織物工場を経営しており、織機が中高速で行ったり来たりする「シャットル」(横糸を通す道具)に驚いた記憶がある。力織機が日本に輸入されたのは幕末から明治の始めであるが、まず群馬県の桐生に導入されたのを皮切りに、官営織物工場や京都の西陣などで使用されるようになった。力織機が本格的に広がるのは明治20年頃からで、京都織物会社、日本織物会社、大阪織物会社などが設立される。

しかし、当時の国内織物業の主役である縞木綿(しまもめん)や絹織物は手工業技術に頼るところが多く、輸入の力織機を利用できなかった。そのため、国産の力織機の開発が急がれた。

こうした国産織機発明の声に立ち上がったのが豊田佐吉であった。今日の世界企業・トヨタ自動車の源流である。佐古は明治23年に豊田式木製入力織機、30年に日本最初の豊田式木製動力織機を発明し、日本の綿織物の発展の基礎を作った。

動力織機の発明の際には、総理大臣をはじめ時の名士が多数訪れたという。

G型自動織機の誕生

豊田佐吉は幕末(慶応3年)、静岡県浜松市にある浜名湖西畔の現・湖西市に貧しい農家兼大工の家に長男として生まれた。豊田家は今川氏の武士であったといわれるが、浜名湖西岸という地の利の悪さから、極端な窮乏に落ち入った。

このような貧しい環境にあっても、佐吉は父親の大工仕事を手伝いながら、新聞や雑誌を読んでいろいろと考える毎日を過ごした。子どもの頃から知的好奇心が旺盛で、有志の青年達と夜学を作り、「日本外史」(頼山陽)などを勉強した。

こうした勉学の中で佐吉は、折角男として生まれたのだから何か世の中のためになることをしたい、と考えるようになった。明治18年に転機が訪れた。それはこの年に「専売特許条例」が発布されたのである。この条例はこれまでの世の中にはないものを創り出すための法律だと聞いた佐吉の心は、はじめて「発明」という天命にたどり着く。

こうして、発明で屈の為に役立とうと考えた佐吉であったが、具体的に何を発明すべきかがなかなか浮かばない。明治19年に入ると、京浜地方に多くの工場が生まれたので、佐吉は何度も工場を見学し、特に綿糸工場の織機に興味を持った。元々、故郷の遠州地方は古くから木綿の産地として有名であり、佐吉もそのことを知っていた。

こうして佳吉は織機の発明に専心することになるのである。そして幾多の試練を経て、大正13年、ついに世界最初で最高性能を持つ「G型自動織機」を完成する。この織機は昭和恐慌に苦悩していた日本の危機を救ったのである。まさに日本版産業革命と呼べるものであった。

少年の頃「教育も金もなかった自分は、発明でお国に役立とう」と決心した佐吉の思いは、その言葉通り実現した。現代人は“お国の人・佐土”をどう見るのだろうか。

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