竹村男塾

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新渡戸稲造と武士道

近代日本を作った男たち 第10回

Takemura

新渡戸稲造

旧五千円札の肖像

昭和59年2月から平成16年10月まで、新渡戸稲造は旧五千円札の顔になった。紙幣の顔はその時代を反映している。例えば、昭和33年12月から昭和61年1月まで発行された聖徳太子の時代は日本の黄金時代であった。新渡戸の五千円札はバブル崩壊と平成不況で自信を失った日本人に、国際人として日本人の誇りを取り戻すように訴えたといえる。

さて、新渡戸稲造といえば武士道である。米国で病気療養中に書き上げた英文の著書『武士道』は出版と同時に、新興国家・明治日本の姿を描いている、として世界の注目を集めた。

武士道は鎌倉時代から始まった道徳であり、その精神は忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、尚武、名誉、情愛などで表現される。中世ヨーロッパの騎士道とも通ずる徳であるが、騎士道と違うのは「武士道とは死ぬことと見つけたり」という精神である。

新渡戸の「武士道」がその真価を発揮したのは日露戦争である。日本が国の命運を決める日露戦争に勝てた要因のひとつに、米国が味方したことが大きい。開戦直前、白本は米国留学の経験者・金子堅太郎(貴族院議員)を米国に送り、ルーズベルト大統領に日本の立場を説明し、理解を求めた。

このとき金子は新渡戸の『武士道』を大統領に贈呈した。これを読んだ大統領は次のように述べている。

武士道は最もよく日本人の精神を表している。私はこの書を読んで初めて日本人の徳性を知った。私は5人の子どもに 1冊づつこの本を与え、熟考して日本人の知く高尚優美なる性格と、誠実豪毅なる精神を学ぶべし、と申し付けた。」

そしてさらに「また、『勇敢なる日本』の文章を読み、日本の陸海軍の将卒の精神を詳しく知ることができた。そのため日露戦争は日本の勝利に帰すと確信するに至った」という。こうしてみると、もともと日露戦争に中立的立場を宣言していた米国が態度を変え、講和に乗り出した背景に新渡戸の『武士道』があったことは間違いない。

太平洋の架け橋に

新渡戸は幕末の1862年、盛岡藩勘定奉行の家に生まれる。その生涯は農学者、農政家、法学者、教育家として日本と“太平洋の架け橋”(東大の入学面接試験で述べた言葉)を貫いた。農学、法学、哲学の博士号を持つことでもわかるように多才であった。

札幌農学校時代にはかなりの硬骨漢であり、ある問題で学校側とやり合って退学の危機に立たされたり、教授と論争し殴り合いになったこともあるという。

一方で、キリスト教に入信するなど、西洋文化に傾倒する。西洋の文化・文明に対する興味は豊かな家庭に育ったことと関係があるようだ。彼が幼年時代には普通の家にはない異国のものがあった。マッチの小籍、オルゴール、ナイフ、フォークなどである。彼にとって西洋文明との最初の出会いであった。

さらに、彼に西洋文明の豊かさを確信させるものが二つあった。鉛筆と牛肉である。つまり、牛肉を食べ楽しんだ経験が彼の知的および道徳的進歩を促した、ということである。この牛肉で、彼はひとつの教訓を得る。まず最初の一歩を踏み出せば、後はどんどん進むというものだ。

幼くして西洋文明に触れた新渡戸は西洋の知識のすごさも知る。このことが学問の道の成功の基本となる。彼にとって学問とは人間の予測力を拡大する源泉である。新渡戸は一方で、自分が武士の出身であることを誇りに持ち、維新後に日本の旧い秩序が崩壊しつつあることを憂い、国家のために尽くすことを決意する。

この国家観は日本のためだけというより、太平洋の架け橋として、また日本人の矜持としての愛国心でもあった。ベルギーの友人から「日本には宗教教育はないのか」と問われて書いたのが『武士道』であることをみれば、新渡戸が真の国際人であることがわかる。

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