竹村男塾

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林董の気骨と外交手腕

近代日本を作った男たち 第16回

Takemura

林董

日露戦争と日英開盟

明治の末に日本が勝利した日露戦争は、世界の歴史を変えた。日本の勝利の立役者は、軍方面では“海軍の東郷、陸軍の乃木”と言われた両雄と“下瀬火薬”を発明した海軍技師・下瀬雅允や

“伊集院信管”の伊集院五郎小将などの名があがる。

戦費調達では時の日銀副総裁・高橋是清である。しかしもう一つ重大企要因がある。それは日英同盟(明治35年)である。

最後の決戦のために派遣されたロシアのバルチック艦隊は3万3340キロメートルにも及ぶ極東への航海に出たが、日英同盟の効力により、航路の先々で補給のための英国領寄港ができず、また英国と良好な関係にあったフランス支配地への寄港も拒否された。そのため、兵士の士気が抵下し、多くの乗組員が死亡するなど、その航海は困難を極めた。

さて、日英同盟はなぜ結ばれたのか。中国・清朝末期の1898~1900年にかけて、華北一世帯に義和国事件と呼ばれる排外的農民闘争が起った。これは日清戦争後の列強による中国侵略が農民の生活を破壊したことへの反乱であった。

この反乱に対して、英・ロ・独・日本など8カ国は連合軍を結成して鎮圧した。この鎮圧の後、列強の中で中国への領土的野心を露骨に示したのがロシアである。ロシアは、日清戦争後の三国干渉によって、日本の租借地を放棄させるなど、日本への屈辱的な強硬さが目立ち、日本は“臥薪嘗胆”のスローガンでロシアに対する憎しみを増加させた。

同時に、英国もロシアの極東進出を警戒し、これを防ぐ手段を考えていた。しかし、英国は当時ボーア戦争をかかえており、極東までは手が自らをかった。ここに、ロシアの極東進出を阻止するという一点で、日本とイギリスは利害が一致した。こうして生まれたのが日英軍事関盟である。もちろん、イギリスの立場は単なる反ロシア対策だけでなく、東洋の新興国・日本と組んだメリットもあった。

函館戦争では賊軍に

この日英関盟締結に努力したのが駐英公使だった林薫である。林は幕末、現在の千葉県佐倉市に蘭方医の子として生まれた。14歳の時に横浜で英語を学ぶ。同窓生に高橋是清がいた。16歳の時、幕府の留学生として英国に渡る。2年後に帰国した林は、幕府海軍副総裁・榎本武揚の軍に入る。そして明治2年の、函館戦争で敗れ、多くの幕府軍らと共に捕虜となった。

津軽藩で捕虜生活をしていた1年後、転機が訪れる。以前、榎本が英国公使パークスに宛てた英語の書簡があるが、これを英語で書いたのが林だった。パークスはその英文を読み、「幕府に英国人がいるのか」と驚いたという。

この英語力が黒田清陸や陸奥宗光の目にとまり、やがて新政府の地方官僚になる。釈放される際の林の言い分がおもしろい。

「自分だけでなく、仲間の捕虜も一緒に釈放されなければ、新政府には入らない」

というものだ。林のこうした他人への思いやりや気骨のある性格が、薩摩の要人に気に入られたといえる。

この評価が林を有能な外交官としての地位を確立することになる。21歳の時に岩倉具視海外視察団に随行し外交能力を磨く。帰国後はいくつかの官僚組織や知事を経験し、明治33年に英国駐在特命全権公使に任命される。2年後にはついに日英同盟の締結に成功する。

さて、開盟交渉に当たった林には一つの難問があった。伊藤博文や井上馨、桂太郎などは「超大国の英国が日本と同盟など結ぶはずがない」と諦め気味で「いっそのことロシアと同盟した方が良いのでは」と考え、実際に伊藤が日露協商の交渉にロシアに行ったのである。こうした動きに対して、林は日英両盟の重要性と日露協商の危険性を説き、ついに日英同盟は成立する。

ひとつ間違えば英国からもロシアからも信頼を失なう瀬戸際の中で、林の気骨ある説得力が日本を救ったと言えるだろう。

林董は佐倉順天堂の創設者である佐藤泰然の五男。兄弟に松本良順。

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