竹村男塾

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本多静六の蓄財心得

近代日本を作った男たち 第12回

Takemura

本多静六

赤貧の中の向学心

学者とか研究者は、俗事に疎くお金には縁がない、といわれる。確かに学者の俸給は経営者や事業主どに比べればはるかに低い。最近、哲学授業で有名になったハーバード大学のサンデル教授も、ある講義の中で、大学教授の給料と他の職業の給料の差を例にあげていた、と記穏している。

しかし、世の中には例外もある。赤貧の中から苦学して東京帝国大学教授になり、投資のみで億万長者になった人がいる。本多静六である。なぜ東大教授が億万長者になれたのか、興味を引くが、その蓄財法はきわめて常識的で、一般の人でも可能である。

それは簡単にいえば、収入の4分の1を強制的に貯蓄することと、その貯蓄を元手に一流で良質な株に投資する、だけである。

本多がなぜこのような蓄財法を実践したのか。それは生まれた環境の中で身につけた、人生哲学と金銭哲学の故である。

本多は1886年、現在の埼玉県久喜市に折原家の六男として生まれた。折原家は埼玉の大農家で、代々名主役を務める名家でなあった。ところが、本多が9歳の時に父が亡くなり、1000万円という当時としては大金の借金が残った。これを境にして、これまでとは違った苦しい生活が始まった。例えば、朝食はごはんに塩をかけて食べるだけ、というものであった。

しかし、このような苦しい生活の中でも、向学心に燃える本多少年は書を読み、勉強する時間を作るため、いろいろな工夫をする。その中では、米をつきながら本を読むと能率が上がることを発見した。この方法で『論一語」や『孟子』などの漢文を暗記していった。

やがて、本多は、母親のすすめで日歳の時に元岩槻藩の塾長で、当時大蔵省の官吏だった人の書生となった。農閑期は東京で、農繁期は帰省という生活を始めた。そして、1884年に開学した東京農科大学(後の東大農学部)に入学する。

学問と蓄賭の目的

この東京農科大学入学が本多の生涯を決めることになる。入学時は末席(50人中最下位)であったが、卒業の時は首席となり、銀時計が贈られた。彼にとってこの大学は林業が好きで入ったのではなく、偶然にすぎなかった。しかしその後、本多は日本で最初のドイツ国家経済学博士、さらにこれも最初の林学博士となり、ついに1900年34歳の若さで東大教授となる。

本多はこの間の仕事観をこう結んでいる。

「仕事は一所懸命にやれば必ず面白くなる。それが成功への道であり、幸福の道である」と。つまり、与えられた目の前の仕事を懸命にやることが大切だ、ということである。

このような仕事観は本多論の核心である『学問と蓄貯』につながる。本多はドイツ習学中に恩師から次の言葉をもらっている。

「いかに学者でもまず独立生活が出来るだけの財産を作らねば駄目だ、そうしなければ常に金のために自由を制限され、心にもない屈従を強いられる。学者の権威も何もあったものではない」

本多の蓄財の動機は単なる金銭欲ではなく、学者としての自由と独立を守ることにあった、と言える。

また、ドイツの恩師は本多にこう示唆した。「ドイツの金持ちはどうしてできたか知っているか。皆鉄道と森林のお蔭だ」。林学博士の本多はこのヒントをもとに国の鉄道建設計画に注自して、計画段階でタダ同然の森林に投資したのである。

こうして、本多は学者でありながら億万長者になったのであるが、彼の偉いところは東大退官後、財産のほとんどを匿名で学校や公共の関係機関に寄付して子孫のために美田を残さなかったことである。

林業と蓄財で一所懸命に生きた本多は、人間の幸せについてこう語っている。「大きな幸せの素は2つある。仕事の道楽化と家庭の幸せである」いずれも現代に欠けているものだろう。

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