竹村男塾

印刷する

後藤新平の先見性

近代日本を作った男たち 第11回

Takemura

後藤新平

大風呂敷のゆえん

家康が開いた江戸の町は当時世界一の快適都市であった。1800年の時点で人口は120万人。ロンドンの90万人、パリの60万人を上回っていた。特筆されるのは清潔さと治安の良さ、教育水準の高きである。水道設備も完備し、長屋の市民はきれいな水を飲むことができた。

一方、ロンドンのテームズ川もパリのセーヌ川もドブ川で、異臭を放っていたという。治安も、日本では東海道を女性が1人で旅することができたといわれる。ある外国人が「もし自分が一般の市民であったら江戸に住みたい」と言ったと伝えられる。また庶民(農民を含む)の識字率は幕末で80%にも達していた。イギリスは25%、フランスは15%程度だったといわれる。さらに、最近の研究によれば、江戸はすぐれたリサイクル都市であった。

やがて江戸は東京となったが、その東京を大正12年9月1日、マグニチュード7.9という大地震が襲った。死者約10万人、焼失家屋約6万5千戸、総面積の約80%が焼け野原となった。この惨状の前に立ち上がったのが、時の内務大臣後藤新平であった。後藤は大正10年に東京市長になったのであるが、この時から東京の改造に着手した。

市長に就任した時の給料問答がおもしろい。市長の給与は2万円であったが、後藤は「そんなケチなことを言うな」と言って、2万5千円に増額させた。しかし、増額分の5千円は市に寄付してしまう。

市長になった後藤は、すぐに市電に乗って市内を巡回し、市設食堂や共同便所も覗いて見た。こうした庶一民的な行動が市民の共感を呼び、人気が出た。そして、就任から数ヵ月で市政全般に亘る「東京市政要領」を発表した。予算は市の予算の約6倍の8億円。これが“大風呂敷”とあだ名されるゆえんである。


帝都復興と公共

後藤は1857年、現在の岩手県奥州市に生まれた。元々は現名古屋大学医学部卒の医者であった。

しかし、人生はわからないものである。明治15年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助(「板垣死すとも自由は死なず」で有名)の治療に当たった時、板垣から「医者で終わるのは惜しい人物」と言われたことをきっかけに、後藤は政府入りし、内務省衛生局長を皮切りに、台湾民政局長、満鉄総裁などを歴任。さらには桂内閣、寺内内閣、山本内閣でそれぞれ大臣を経験する。

後藤の人生に一貫して流れているのは「公共」の発想である。一人の医者として患者に対応するのだけでなく、社会全体の検疫システムの重要性を建白した。特にコレラの侵入と戦った功績は大きい。

また、台湾時代には、当時『水滸伝』的世界(過酷な気象、阿片、貧困、複雑な人種、盗賊などが横行する世界)といわれた台湾に道路、鉄道、郵便、上下水道、学校などを建設した。満鉄時代にも、鉄道の広軌化、都市の整備、ホテルの建設、港の整備、旅順工科大学など教育機関の創設を行った。

こうした後藤の公共思想の集大成といえるのが、大震災後の「帝都復興計画」である。この計画は元の東京に復するのではなく、新たな東京を創ることに目的があった。

結果的仁は、後藤の計画は大幅に縮小されたが、それでも隅田公圏などの3大公園や昭和通りなどの幹線道路、永代橋などの橋、西洋式共同住宅などが建設され、江戸から連綿と続く緑多く清潔な街並みをもつ東京が復興した。

公共性と並んで、人材の活用もある。後藤は「午後3時の人間は使わない。昼間の人間を使う」と言って若手を抜擢した。また、少年団(ボーイスカウト)の結成にも努力した。

後藤は常に100年先を見ていたスケールの大きな改革者であった。ただ、現在の東京は全ての都市機能が揃っているが、オンリーワンがないともいわれる。第2の後藤が待たれる。

キーワード