竹村男塾

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松永安左エ門の多才

近代日本を作った男たち 第9回

Takemura

松永安左エ門

福沢諭吉との出会い

人間の一生というものを考える時、松永安左ヱ門ほど劇的な人生を送った人間はいないのではないか。97歳で亡くなったが、92歳まで現役だったというから並の人間ではない。

自動車業界の産業スパイの暗躍を描いた推理小説で世に出た作家・梶山李之がある時、財界人に「小説にして面白い人物は誰か」と尋ねたところ、多くが松永安左ヱ門を挙げたという。

ではどんな人物なのか。松永は九州・壱岐の大事業家の長男として生まれた。少年の頃、福沢諭吉の「学問のすゝめ』を読んで感動し、父親の反対を押し切って慶応義塾に入る。しかし、慶応に入って 3年自に父親が急逝したので、直ちに壱岐に帰り、わずか17歳で家業を継ぐことになった。

やがて日清戦争が起こり、これに乗じて上海貿易などで大きな利益を上げた。しかし、松永はこのまま壱岐にいても壱岐の一商人で終わってしまうし、父親の反対を押し切ってまで入学した慶応での学問が無駄になると考え、多くの事業を人に譲渡し再び慶応に復帰することになる。

この時を境に塾長・福沢諭吉にかわいがられ、福沢の日課である散歩に他の塾生と一緒に同行することを許され、歩きながら、資本主義とは何か、を学んだ。

例えば、ある時福沢は塾生たちに「俺はロシアは必ず潰れると思うが、君らはどう思う」と訊いた。

松永が「それは如何なる点から推論されますか」と質すと、「ロシアには国内至る所に鉄道ができるので、シベリア辺りの田舎のロシア人も文明の有様を見る。すると彼らが革命を起こす」と答えたという。

また、松永はこの時、福沢の娘婿の福沢桃介と親しくなる。この福沢桃介との出会いが、その後、良くも悪くも松永の運命を翻弄することになる。

慶応を出た後の松永の行動は好余曲折を経て、最後は戦後の日本の電力事業を再編し、日本経済再興の基盤である九電力体制を確立した。この過程はまさに“電力の鬼”と言うにふさわしい活躍ぷりだった。

布袋闘鶏を見るの図

松永が電力に賭けた思いには頭が下がるが、本当におもしろいのは彼の人となりである。福沢にかわいがられたのもその人柄の故であろう。もともと美男子で女性にも人気があった。福沢桃介も遊び人で、役者・川上音次郎の妻であった貞奴との艶聞は有名である。2人はそんなことで気が合ったのであろう。

松永は事業家であると同時に大変な文人で、特に知られているのはアメリカの詩人・ウルマン(「人は年ではなく、理想を失う時に老いがくる」で有名)の翻訳者であることだ。事業が行き詰まった時、松永はこのウルマンの「理想」に勇気づけられたのではないか。

また松永は登山が好きで“登山人生観”ともいうものを持っていた。松永の登山は単に頂上に立って朝日を拝したり、光景の美しさに浸るというだけでなく「凡人が一大事業を成し遂げた時の快感を味合うにある」という。

松永は言う。「登山は人生の縮図であって、人間が一生かかっても得られないような教訓をわずかな時間で体験することができる」と。

松永の自缶を読むと、登山から得た教訓として印象に残るのは次の言葉である。
  • 人生は努力に次ぐ努力、緊張に次ぐ緊張の連続
  • 何をするにも度胸が必要
  • 人間はあくまで一個の独立した生活者であれ
松永にはこんなエピソードもある。いわゆる「60年安保」を改訂後に辞職した岸信介首相の後継をめぐって、池田勇人と河野一郎が争った時、松永は別荘に2人を呼んで、1枚の絵を見せた。

「布袋闘鶏を見るの図」であった。もちろん松永は自分を布袋に見立てたわけである。2人の実力者はすぐ松永の意図を察した。そして河野が降りて池田首相が誕生した。文人・松永らしい演出であった。

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