竹村男塾

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地震予知の泰斗 今村明恒

近代日本を作った男たち 第19回

Takemura

今村明恒

災害発生と社会不安

「大震災は人間の最も脆弱な部分をついてくる」と書いたのは、中国の新聞『新京報」である(3月12日)。中国では2008年の四川大地震(マグニチュード8)が発生。死者・行方不明8万7000人を出した。そのため日本の大震災にも関心が高かったのだろう。『新京報』の言う「大震災と人間社会の脆弱性の関係」が気になったので、過去の日本の大震災を調べた。

・貞観地震(三陸沖・869年)はM8.3で、死者1000人と推定される。当時は平安前期。藤原氏が権力を確立していく過程にあり、天地動乱時代と呼べるほど権力抗争が激しかった。(例えば応天門の変)。

・宝永地震(東海・東南海沖で1707年)はM8.6で死者2万人とされる。この地震は記録に残る限り、日本最大級の地震だった。その49日後、富士山の側面が大噴火する。この時代は元禄時代に起きた「赤穂浪士事件」が尾を引いており、綱吉政治の混乱が続く。

・安政3大地震(東海・東南海連動・1854年)はM8.5で死者6000人。また翌55年には江戸直下型(M6.9で死者4000人)が発生し、さらに翌56年には超大型の台風が江戸を直撃し、死者10万人という大被害を出した。この時代は幕末の動乱期で「安政の大獄事件」も起きている。

このほか明治29年には明治三陸地震(M8.5=死者2万7000人)、昭和8年の昭和三陸地震(M8.1=死者3000人)が発生している。明治29年は日清戦争後の「3国干渉」があり、昭和8年は日本が国際連盟を脱退した年だ。

このように大災害と社会不安の関係はかなり符合しているように見える。科学的に証明は難しいが“災害は忘れた頃にやってくる”の諺もある。慢心し騒り高ぶるのが人間の常だ。天災は人間の心の空白を衝いてくるのではないか。

関東大震災にも言及

こうした人聞社会の脆弱さを早くから警告していた人物がいた。今村明恒である。今村は明治3年、薩摩藩士の3男として鹿児島市に生まれる。やがて理科大学(東大)に入り地震学を専攻した。そのまま大学に残り地震学者の道を歩んだ今村は、地震のメカニズムの研究に没頭した。

そして明治三陸地震の研究により、津波が海底の地殻変動によって起きることをつきとめ、発表した。しかし、まだ地震学が未熟だった当時、今村の研究成果は殆ど評価されなかった。

今村はそれでも、関東地方では周期的に大地震が発生する、と予想。明治38年に「今後50年以内に東京で大地震が起きる」と雑誌「太陽」に発表した。この論文はセンセーショナルに取り上げられた。

結果、東京大学での上司である大森房吉によって「今村説は世間を騒がす浮説に過ぎない」と、厳しく批判された。そのことで今村は世間からも“ホラ吹き今村”と誹誇中傷される。

しかし、大正12年になって今村の予知の正しさが証明された。死者10万人を出した関東大震災の発生である。これで世間は一転して、今村を“地震の神様”と呼び尊敬するようになった。

地震予知に関して、今村とことごとく衝突していた大森は、自分の誤りと責任を感じる、との言葉を残して間もなく死去する。一方、大森弁護の説もある。それは世間(民心)を安心させるため、あえて「確固とした証拠(根拠)がない以上は、無用な言説一を発表すべきではない」というものだ。

今村の予知はその後も当たる。昭和19年の東南海地震(M7.9=死者1200人)、同21年の南海地震(M8.0=死者1400人)という大災害であった。だが、今村が明治時代から警告し

ていた地震への備えは何ら行われてこなかった。

確かに地震予知は難しいが、それでも「いつかは起きる」地震に対する備えはできたはずである。誠意ある地震学者の言葉に耳を傾けなかった人々に対する“ツケ”は大きかった。

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