竹村男塾

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哲学界の先駆者 西周

近代日本を作った男たち 第24回

Takemura

西周

啓蒙思想とは何か

啓蒙の一般的意味は、無知な状態を啓発して教え導くことである。つまり、民衆に知識を与え、個人としての自覚と、それに伴う自発的行動を促すことだ。

同時に、啓蒙には歴史的概念としての啓蒙思想がある。啓蒙思想は17世紀末から18世紀後半の西洋に現れた思想である。具体的には神、理性、自然、人間に関する観念が一つの世界観に統合され、芸術や哲学、政治に革命的な発展をもたらした思想である。

人間の可能性は正しい「理性」によって切り開かれるもので、そこにこそ真実があり、人間の幸福が得られる、という考え方である。これは、それまでの西洋を支配していた宗教的及び世俗的権威を打破し、個人の人格の尊厳と理性の自立を促す思想であった。

この啓蒙思想は次第に改革的、革命的思想の色彩をおび、ついにイギリスにおいては清教徒革命と名誉革命を。また、フランスにおいてはフランス革命を引き起こすに至るのである。

西洋の啓蒙思想が日本に入ってきたのは19世紀の幕末から明治10年頃であったが、すでに西洋の啓蒙思想は終わっていた。日本での啓蒙運動の中心になったのが「明六社」といわれる人々であった。明六社の人々が導入した啓蒙思想は、西洋のそれとは異なったものであった。

日本の啓蒙思想は、黒船来航に代表される対外的危機に、いかに対抗するかという課題が中心になった。つまり、西洋列強に対抗しうる国家の建設を目標にしたナショナリズムの形成に力点が置かれた。当時の西洋列強はすでに帝国主義に入っており、日本の独立はきわめて不安定なものになっていたのである。

啓蒙思想の個人の自由・独立と国家の自由・独立を両立させる文明の有り方を最初に考えたのは福沢諭吉である。ただ、福沢の啓蒙思想は西洋文明論の範囲にとどまった。福沢の文明論に対して、啓蒙思想を日本の哲学や政治学として学問的に確立しようとしたのが西周である。

哲学用語を多く創作

西周は1829年、今の島根県津和野の藩医の長男として生まれた。川を挟んで向い側には森鴎外の生家があり、父親が森家から養子に入った関係で、西と森は親戚に当たる。

4歳の時から祖父に儒学を教わり、同時に家業の外科医の勉強を始める。

西は大変な勉強家で漢詩、書道、能、狂言など多方面に好奇心を示した。外出する時も書物を離さず、書物を見ながら米をつくこともあったという。

こうした学問好きが幕府に認められ、西は33歳の時オランダ留学を命じられた。オランダでは法律、経済、哲学などを学び、3年後に帰国して開成所(東京大学の前身)教授に就任。西洋の学問を多く紹介した。

明治維新後は新政府に勤務し、明治6年、44歳の時に、森有礼や福沢諭吉らと前述した「明六社」を結成。機関誌『明六雑誌』を通して明治初期の国づくり政策の推進に啓蒙的役割を果たした。明治政府における役職は多彩で、兵部省、宮内省、文部省で要職を歴任した後、東京高等師範学校長、貴族院議員などを歴任した。

このように多方面で啓蒙的役割を果たしたのだが、特に評価の高い功績は、西洋哲学を紹介し、日本哲学界の先駆者となったことである。現在日本で使われている哲学 技術用語の殆どは西の創作である。

英語のphilosophyを「哲学」と訳したのをはじめとして
「化学」、「学術」、「本能」、「概念」、「観念」、「帰納」、
「演繹」、「命題」、「肯定」、「否定」、「理性」、「悟性」、
「知覚」、「意識」、「感覚」、「主観」、「客観」など、
西が創作した言葉は数多い。

西をはじめとする啓蒙思想家には共通するものがある。いずれも下級武士の出身である。このことが封建的な身分制度への反抗と、新しい国づくりを哲学に求めた、西のような逸材を生んだということができる。

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