竹村男塾

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日本細菌学の父 北里柴三郎

近代日本を作った男たち 第25回

Takemura

北里柴三郎

東洋涯学と西洋医学


人類にとって、永遠の課題のひとつは病気である。病気は個人にとっても社会にとっても莫大なコストを要し、幸せな生活を一変させる。病気の原因は様々であり、その捉え方も歴史や文化、社会によって異なるが、大概西洋医学と東洋医学に大別される。

西洋医学による病気の原白因は大きく2つに集約される。ひとつは、外部から私たちの体内に細菌やウイルス、毒素などの微生物が侵入することによって起こる病気である。寄生虫や放射線なども含まれる。

これまでの人類の歴史の中で、この細菌により最大の被害を受けたのは、14世紀の中期にヨーロッパを侵食したペストである。イタリア半島や百年戦争中の英 仏をはじめ、ヨーロッパ一帯に広がり、人口の3分の1、2000万人以上が死亡したと伝えられる。

第2の要因は、体内の先天的あるいは後天的構造欠陥や生理的な機能異常などによって起こる病気である。今日、日本で問題になっている病気として糖尿病があるが、これは血液中の糖升を代謝するインスリンレしいうホルモンが不足することによって起こる病気だ。

2大病気原因説の他には細菌などの外因性要素と生理的機能異常などの内因性要素が混合して起こる病気もある。また環境の変化で体内に有害な変化や障害が生じて起己ることもある。

東洋の医学では生活の習慣や精神状態、あるいは食事の不摂生や異常などによって病気が起こることを重視している。医聖といわれる古代ギリシャのヒポクラテスも東洋的な医学を重視した。

以上の病気原因説の中で最も重視されてきたのは細菌の研究である。遺伝学や生物の生理、機能解明の上からも重視された。近代細菌学の開祖といわれるコツホ(独)やパスツール(仏)が先鞭をつけた。一方、日本の細菌学はわが国細菌学の父といわれる北里柴三郎にはじまる。

ノーベル賞候補にも


北里は幕末(1852年)、現在の熊本県阿蘇郡小田町の総庄屋の家に生まれた。少年時代の北里は村1番の腕白坊主で、軍人か政治家を目指していた。だが両親は医学の道に進むことを望んだため、明治4年、19歳の時、熊本医学校(現在の熊本大学医学部)へ入学する。

医学校には入ったが、はじめは医学に関心がなく、語学に精を出した。しかし、医学校のオランダ人教師・マンスフェルトは北里の才能を評価し、医学は男子一生の仕事であると説き、東京やヨーロッパで学ぶことをすすめた。

それを受け北里は23歳の時、東京医学校(現在の東京大学医学部)へ入学する。そして33歳の時ベルリン大学に留学し、先に述べた細菌学の開祖・コッホに師事する。37歳の時、破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚かせた。翌年、さらにその血清療法を発見し、世界に註目されることになった。

この血清療法の発見については、大学の同僚ベーリングとの共同研究として第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に挙がった。結果はベーリングのみの受賞となったが、論文に使われたデータは、北里の獲得したものが殆ど、といわれる。

なぜ北里はベーリングとの同時受賞ができなかったのか。当時の日本は国際的な科学界での地位が低かった、ということであったとしても、北里の研究は充分賞に値するものであった。

それでもノーベル賞候補に挙がったことで、北里は欧米諸国から多くの招きを受ける。しかし北里は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病から国民を守る、という強い思いにより、招きを固辞して日本に戻る。

その後、北里はベスト菌の発見や、伝染病研究所、慶応大学医学部、北里大学などの創設、日本医師会長就任など、文字通り日本の医学会をリードした。門下生から「ドンネル」(かみなりおやじ)と親しみを込めて呼ばれた男は日本細菌学の先駆的開拓者となった。

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