竹村男塾

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佐藤紅緑と少年少女小説

近代日本を作った男たち 第29回

Takemura

佐藤紅緑

嗚呼玉杯に花うけて


散文で書かれた虚構の物語を「小説」というが、日本で小説という言葉が生まれたのは明治に入ってからである。

その発端は坪内遣遥が明治18年に発表した『小説神髄』という文学論である。この中で坪内は小説の主眼を「人情や世俗風俗のありのままを描写するにある」とした。つまり、小説の神髄はリアリズムにあるというのである。

こうして日本の近代小説は生まれたのであるが、独自の物語の伝統をもつ日本において、新しい小説が確立するのは森鴎外や夏目激石らが登場する20世紀まで待たねばならなかった。

とはいえ日本小説史の中では「少年少女文学」といわれる分野は比較的早く誕生した。出発期は明治24年、巌谷小波の『こがね丸』であるとされる。彼は「文壇の少年王」と言われるほど、少年少女の純愛をテーマにした小説を多く書いた。

やがて昭和2年(1927)、講談社の「少年倶楽部」に掲載された「鳴呼玉杯に花うけて』という少年少女小説が大反響を呼んだ。一躍少年小説の第一人者となった。作者は佐藤紅緑

紅緑はこの作品を手始めに、『紅顔美談』、『少年讃歌』、『直線』、『毬の行方』、『朝日のごとく』などを次々と発表し、全国の少年少女を熱狂させた。

出世作『鳴呼玉杯に花、つけて』は明治35年に開校した旧制一高の代表的寮歌として有名である。それを題名にした。

物語はこうだ。主人公の少年・千三は頭がよくて成績優秀ながら、家が貧しくて中学校に通えない。彼は毎日てんびん棒にぶらさげた桶に豆腐を入れて売り歩く毎目だった。その道中で彼はかつての同級生達との友情と葛藤、いじめに会うが、その後、貧乏人を集めた私塾での一高生との出会いなどを通じて、立身出世を目指して努力し、やがて一高に合格する。

紅緑の少年少女小説に共通するものは、善と悪の人物を配置し、最後は善なる人物が勝利し、悪人を導くという展開だが、その迫力ある正義感・人道主義と立身出世観が少年少女達を感激させたのであろう。貧しさに屈しない精神は輝く星に見えたに違いない。

子規門下で才能開く


佐藤紅緑とはどんな人物であったのか。紅緑は明治7年(1875)、青森県弘前市に生まれた。父弥六は弘前市の産業振興に尽くした名士であった。

だが、名門の家に生まれたとはいえ、その生涯は波乱に満ちている。明治26年、現在の弘前高校を卒業すると、遠縁に当たる陸掲南(明治時代の新聞人。政府の皮相的な欧化主義に反対した)を頼って上京し、日本新聞社に入る。

そこには7歳年上の正岡子規がおり、2人は机を並べることになる。紅緑という名前(ペンネーム)をつけてくれたのも子規であった。

子規からは人間性の豊かさと精神的教養を教わった。紅緑は、子規の勧めで俳句を始めるが、それは滑稽さに満ちていたという。子規はその才能を高く評価したらしい。

やがて紅緑は子規門下の。“四天王”とまでいわれるようになる。子規門下として才能を開花させた紅緑は、その後幾つかの新聞社で記者として数年間働きながら、小説や脚本を書いて、次第に名声を得るようになった。

明治38年(1905)、記者生活をやめ、本格的な作家生活に入るが、その自然主義的な作風により名声はさらに高まった。そして昭和2年に発表したのが『鳴呼玉杯に花うけて』である。

こうして流行作家としての地位を築いた紅緑ではあるが、私生活はいただけない。それまで紅緑を支えた糟糠の妻と子どもを捨てて若い女性に走り、一転して社会から糾弾を受ける。

4人の息子は不良少年となり、後に成功したのは詩人・サトーハチローだけである。(その娘・愛子は作家)。強く正しく真っすぐな少年を描いた紅緑だが、私生活はお粗末だった。

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