竹村男塾

印刷する

「ごんぎつね」と新美南吉

近代日本を作った男たち 第27回

Takemura

新美南吉

教科書に載った童話

昭和5年、現在の愛知県半田市を舞台にした一編の童話が発表された。題名は『ごんぎつね(権狐)』。この童話は後に小学校の国語教科書の教材として採用され(昭和31年)、以来約60OO万人の児童が読んだ、とされる。

ごんぎつね』の粗筋はこうだ。物語は「これは、わたしが小さいときに、村の茂平(もへい)というおじいさんから開いたお話です。昔は、わたしたちの村の近くの中山という小さなお城があって、その中山から少しはなれた山の中に“ごんぎつね”というきつねがいました。ごんはひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。そして、夜でも昼でも辺りの村へ出てきて、いたずらばかりしていました。畑へ入っていもをほり散らしたり、菜種がらのほしてあるのへ火をつけたり、いろんなことをしました」という端書きで始まる。

そして、ある日ごんは兵十が川で魚を捕っているのを見つけ、兵十が捕った魚やウナギを逃してしまう。それから10日ほど後、兵十の母親の葬列を見たごんは、あの時逃がしたウナギは兵十が病気の母親のために用意したものだと悟り、後悔する。

母を失った兵十に同情したごんは、ウナギを逃した償いのつもりで、いわしを盗んで兵十の家に投げ込む。しかし翌日、いわし屋にいわし泥棒と関違えられて兵十が殴られている事を知り、ごんは反省する。

それからごんは自分の力で償いはじめる。しかし、兵十は毎日届けられる栗や松茸の意味がわからず、神様のおかげだ、と思い込むようになってしまう。それを知ってごんはさびしくなる。

その翌日、ごんが家に忍び込んだ時、兵十は猟銃でごんを撃ってしまう。だが、土開の栗を見つけて「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは」と間いかける兵十に、ごんは目を閉じたままうなづく。

豊かな空想と土俗性

この童話の作者は新美高吉である。新美は大正2年(1213)、半田市に畳屋の次男として生まれた。兄が生後わずか18日で、母親も29歳で亡くなるなど、家一庭は必ずしも平穏ではなかった。ただ「南吉」は兄の名前で、父親が新美に二人分生きてほしいとの願いを込めてつけたという。それを知った新美は父親の期待に応える気持を強く持った。

小学生の頃はおとなしく目立たないこどもだったが成績は良かった。15歳(中学生)の頃から童話や詩の投稿を始める。19歳の時児童文芸誌「赤い鳥」に『ごんぎつね』が掲載される。「赤い鳥」は児童文学者・鈴木三重吉が創設したもので、森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介らの支持を受けた。鈴木は新美を高く評価し、彼の作品を全国に普及させることに努力した。同じ年に彼は東京外国語大学に入学した。

新美の童話は、人聞から見た主観的・構緒的な視線で、何げない生活の中の素朴な話題を取りあげ、味わい深い作風に仕上げている。しかし、その生涯は短かった。わずか29歳で死去した。が、18歳で『赤い鳥』に童話が載ってからの11年間で100編以上の作品を残したことは驚嘆に値する。

ところで「ごんぎつね」はなぜ支持されたのか。ごんぎつねは兵十の鉄砲に撃たれた時、納得して死ぬが、これは新美が4歳で母を亡くした生い立ちと関係があるようだ。その証拠に、新美は東京外大時代の日記にこう記している。

「もっと体が強かったら、と思つてはいけない。思ったとて仕方のないことだ。弱く生まれついて、貧しい家庭に不良の栄養をもって育まれたのだ」

つまり、きつねがうなづきながら死ぬのは悲しいことだが、悪いことをしたのだからそれも運命だ。こういう死生観が多くの人の共感を呼んだのであろう。

“善意が相手に伝わらないことがある”という見方では、この童話を理解したことにはならないのではないか。

キーワード