竹村男塾

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日本物理学の父・仁科芳雄

近代日本を作った男たち 第28回

Takemura

仁科芳雄

ヨ-ロッパの自然観


古代ギリシャの人々は好奇心旺盛で、自然の姿、あるいは物質の動き(物理現象)について興味を持った。手に持っていない物質はなぜ地面に落ちるのか、なぜ異なった物質は違う特性を持つのか。空にある天体はなぜ落ちてこないのか。

このような興味と考察はギリシャに自然学と呼ばれる哲学を生んだ。例えばイオニア学派は、存在するものの普遍的本質を求めた。ピタゴラス学派は数によって宇宙の構造を解明しようとした。また、デモクリトス派は原子論を主張し、物質

の多様性は等質な原子の結合に由来するとした。

16世紀に入ると、ガリレイは実験による科学的研究法によって、自然の原理を究明しようとした。そして万有引力の法則を打ち立てた。この万有引力の法則は、全ての現象は物理現象である、とする発想のキッカケを作った考えとして有名である。

20世紀に入ると、アインシユタインが相対性理論を発表し、時間と空間の関係に新しい知識を与えた。

ギリシャ以来の古典的な物理学では、物質現象が発生する時間と空間は、物理硯象そのものとは別々のものと考えられていた。ところが、アインシユタインは重力(物体に働いて重さの原因となる力)によって、物質の存在が時間と空間に影響を与えることを証明したのである。

現代の物理学は分子、原子、原子核、素粒子などの小さな世界の研究に重点が移っている。

物理学が日本に登場するのは20世紀に入ってからである。はじめに登場するのが長岡半太郎、2人目が仁科芳雄である。とくに仁科は日本の“物理学の父”として多くの研究者を育てたことで功績が大きい。

日本人初のノーベル賞受賞者となった湯川秀樹の師としても著名である。「はやぶさ」をはじめ日本の宇宙物理学の発展の基礎を作った仁科は、日本物理学の父と呼ぶにふさわしい。

ポーア博士と出会う


仁科芳雄は明治23年(1890)、現在の岡山県浅口郡里庄町に生まれた。旧制中学時代はテニス部の主将を務めるなど、スポーツに励んだ。

もちろん勉強もよく出来て中学は主席で卒業。卒業後は旧制第六高等学校(現在の岡山大学)工科に入学した。1~2年次は病気がちであったが、3年次になると運動部の監督を務める。

大正3年(1914)、六高も首席で卒業して、東京帝大工学部電気科に入学する。大正7年(1918)、東大を首席で卒業し、理科学研究所の研究生となる。

大正10年(1921)からヨーロッパに留学し、イギリスのケンブリッジ大学、ドイツのゲッティング大学、デンマークのコペンハーゲン大学などに学ぶ。

この留学中、特に影響を受けたのはデンマークのボーア教授であった。ボーア博士は量子論の創始者でノーベル賞受賞者でもある。このボーア博士との出会いが仁科の物理学者としての人生を決めたといってよい。

ボーア博士の指導を受けていた留学時代は、世界各地から一流の理論物理学者が集まり活況を呈していた。仁科はここでX線の化学への応用に力を注いだ。

留学中に物理学の歴史に名を残した仁科は、昭和3年(1928)に帰国し理研に戻る。理研では仁科研究室を立ち上げ、当時日本にはなかった量子論、原子核、X線、宇宙線などを研究した。こうして仁科研究所は、日本における新しい物理学研究の一大拠点となったのである。

仁科はこの研究所を通じて日本の物理学を背負う多くの有為の人材を育てた。弟子からは“親方”と呼ばれ、その教育は厳しかったが、暖かく、励ましの言葉があり、親しみがあった。

湯川は後の回想で「仁科先生は個性的な学者集団を大きく包み込む偉大なお父さんのような存在であった」と述べている。仁科は物理学者だが、偉大な教育者、経営者でもあった。

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