竹村男塾

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井上毅と教育勅語

近代日本を作った男たち 第23回

Takemura

井上毅

大震災時の助け合い


1000年に1度といわれる2011年の東日本大震災では、東北の人々の礼儀正しさ、謙虚さ、助け合いの精神、そして何より他人の不幸に乗じた略奪が皆無だったことに対して、海外の人々から称賛の声が寄せられた。(もっとも、被災地から出たガレキ処理を自分の町で引受けることに反対の、エゴまる出しの人々もまた同じ日本人であったが)総じてこの称賛は当たっている。

日本人のこの特質は、民族として連綿と続いている美風を基礎にして、明治時代に成立した「教育勅語」が花を咲かせたということができる。教育勅語とは明治政府が国民の守るべき道徳のあり方を、勅語としてまとめ、学校で教えたものである。

王政復古によって政権交代を果たした明治政府の当面の目標は欧米列強を模範とした国作りであった。いわゆる欧化政策である。その結果、不平等条約を呑まざるを得ず、日本の独立は困難であった。

特に高等教育は欧米の教科書を使わざるを得なかった。その欧米の思想はいわゆる功利主義と合理主義であり、教育と学問の目的も金儲けや立身出世を目指すものであった。

福沢諭吉の『学問のススメ』も功利主義が根底にある。欧米流の功利主義による教育は日本本来の道穂や“もののあわれ”の美徳を軽んずる風潮を生み、心ある人々から反発が出た。

また、明治天皇御自身もこの欧米流の教育思想に疑問を持ち、明治19年の東大行幸では、わが国の歴史、伝統、文化軽視の傾向に、重大な疑念を示されたといわれる。こうして、道徳教育のあり方についての改善を求める声が沸き起こり、明治23年当初より誰もが納得できる道徳教育の根本理念を起草する機運が高まった。

そして同年10月、ついに「教育勅語」として換発された。この教育勅語は海外にも紹介され、大きな評価を受けることになる。そして昭和23年まで日本の精神的支柱として機能したのである。

法治主義の立憲国家


わずか315文字から成る教育勅語を作成した人々の中心にいたのが明治23年当時の山県有朋内閣の法制局長官・井上毅である。なぜ井上は教育勅語を起草したのか。井上は天保14年、熊本藩士の家に生まれた。藩校・時習館では秀才といわれた。この頃から当時の学問の中心であった「漢学」の無用さを知り、江戸に出てフランス学を学ぶ。

維新後に司法省の官僚となり、法制の専門家としての道を歩み始める。やがて大久保利通や岩倉具視に重用され、フランスに留学して司法行政を勉学し、帰国後は伊藤博文のブレーンとして軍人勅諭や大日本帝国憲法の起草に参加するなど、日本の司法制度の近代化に貢献した。

このような中で井上が目指したのは、平均的な日本人にある価値観の重視であった。その価値観とは、法治国家・立憲主義の原則を重視し「その原則の下で保障された人々の権利は、国家といえども干渉できない」というものである。

この法治主義の考えの下で、井上が示した教育勅語は2つの原則に貫かれている。第1に政治的な主張を含まないこと。第2は天皇が国民に直接所信の表明として表すこと、であった。つまり、教育勅語は公的制度ではないのである。

井上のこの原則は教育勅語の中に明確に表れている。教育勅語は3つの内容に分かれている。前段では天皇と臣民がひとつになって、祖先が築いた道徳を守ってきたこと。2段目は国民が守るべき具体的な道徳の項目で、3段目が天皇と臣民が一体となって道徳項目の実現に選進すべきことを求めている。

教育勅語は軍国主義と結びついた、と避難されてきた面もあるが、全体をよく読めば、示された12項目の徳目は軍国主義とは関係ないことがわかる。井上の示した道徳は再評価されてもよいのではないか。

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