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最後の元老 西園寺公望

近代日本を作った男たち 第22回

Takemura

西園寺公望

京大と立命館の創設

王政復古によって成立した明治政府の最初の課題は優秀な官僚の養成であった。明治政府は国内の行政や法の整備だけでなく、西欧列強による帝国主義への対応を迫られていた。

官僚は語源的には「役人」を指すが、実際には国家運営に大きな影響力を持つ高位の役人を指す。具体的には中央官庁のキャリアと呼ばれる人々の群である。

この官僚養成を目的として日本に初めて本格的な大学が設立された。東京大学である。米国や英国の一流大学がほとんど私立大学であるのに比して、東大は国策大学として1877年(明10)に誕生した。しかし、東大は確かに官僚養成を目的に「学問の自由」を掲げ、高さだけを求めたのではなく、いわゆるリベラル・アーツ(教養)を重視した。

こうして、東大は日本で最初の大学として発足したが、1888年(明21)に帝国大学令が公布されると、関西にも帝国大学を望む声が上がった。だが、当時の日本は財政難のため設立は見送られた。例えば、明治24年と25年に衆議院の長谷川泰議員が関西に第2帝国大学新設の建議を出したが通らなかった。

やがて明治27年から28年にかけての日清戦争で勝利した日本は莫大な賠償金を得る。そのことで「関西に帝国大学を」という動きが再び活発化する。その際、重要な人物が登場する。第2次伊藤内閣で文相を務めていた西園寺公望である。

西園寺は伊藤首相宛に京都大学設置を建策し、ついに1897年(明30)の第9回帝国議会において、京大設置法案が可決成立した。東大より20年遅れたが、第2帝大の誕生であった。京大は当初から東大とは対照的にしたが、知識レベルの西田幾太郎や今西錦司、湯川秀樹などの世界的人材を輩出した。

西園寺は京大ばかりでなく、現在の立命館大学の創立にも深く関与した。「立命館」は西園寺の私塾でもあり、その縁で“学祖”となっている。

仏留学と民権思想

京大や立命館大の創立に貢献した西園寺公望とはどんな人物か。西園寺は幕末1849年に公家・徳大寺家の次男として京都に生まれた。幼少の時に西園寺家へ養子に出され家督を相続した。

世は幕末維新の混乱期であったが、同じ公家出身の岩倉具視や三条実美のようには活躍しなかった。ただ岩倉に可愛がられたおかげで、伊藤博文や山県有朋といった大物政治家とも付き合うことができた。

周囲の者から見ると、西園寺は変人で、例えば日本で初めて宮中に洋服姿で参内し、他の公家から怒りを買ったというエピソードもある。西圏寺はむしろ自分が変人であることを自慢しているところがあった。

西園寺の人格を形成したのはフランス留学であった。後にフランス首相となるクレマンソーや留学仲間の中江兆民と親しくなって、フランスのリベラルな思想を 身につけた。本来リベラルな思想と公家というエリートに求められる責務は相反するが、西園寺はこのこつをうまく融合して独自の政治観、人間観を身につけたといわれている。

やがて第2次伊藤内閣の文部大臣として入閣し、政治家として歩み始める。1904年(明37)には政友会総裁となり、ついに明治39年と明治44年の2度に亘り内閣総理大臣となる。

この間は桂太郎との桂園内閣時代と言われる。そして、西園寺は明治末から大正の初めにかけて日本の政治を担当した。また、その後も大正時代最後の元老として後継首相推挙の任に当たった。

西園寺は文章の達人でもあった。『陶庵随筆』は名文で、国木田独歩(明治の小説家)は「侯の随筆は一の立派なる文学上の産物である」と言っている。京大と立命館大学の関係が深いのは、西園寺という自由な文人公爵が家宰の中川小十郎を介して創立に深く関わったためではないだろうか。

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