竹村男塾

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司法の独立守った児島惟謙

近代日本を作った男たち 第21回

Takemura

児島惟謙

大津事件への対応

明治24年5月27日。日本の裁判史上画期的な判決が下された。訪日中のニコライ・ロシア皇太子殺害未遂事件の裁判のことである。

ロシアは19世紀に入ると、極東・日本への野心を明確にし、ゴローニンやプチャーチンが幕府に開国を迫った。しかし、幕府にこれを拒否されると、ニコライ1世は海軍を増強し、シベリア鉄道の建設を急いだ。1821年3月17日。シベリア横断鉄道の起工式が行われることになり、ニコライ1世は皇太子ニコライに代理出席を命じた。しかし、この代理出席には別の目的があった。表向きは皇太子の視野拡大であった。

ニコライは生来優柔不断で決断力・実行力に欠ける頼りない人間であった。そこでニコライ1世は、起工式出席のついでに日本視察を命じたのである。

しかし、皇太子の日本派遣は大型軍艦7隻に側近や警護の軍人、シベリア鉄道建工兵1000入を乗せた大々的な陣容で行われた。つまり日本視察は、皇太子に将来の帝王としての自覚を持たせると同時に、ロシアの強大な国力と、それを背景に日本開国の圧力を示すためのものだった。

実際、時の駐日公使は、皇太子一行が日本のどの港にも寄港できるよう要求し、拒否すれば砲撃する、と脅しているのである。ロシアの意志に恐怖を感じた日本は、ロシアや皇太子に対し失礼のないよう、国をあげて歓迎する準備を整えた。当時の日本は近代工業が漸く芽生え、憲法も制定したが、まだ未熟な国であった。

一方、当の皇太子自身はどう考えていたのか。皇太子はむしろ日本訪問を楽しみにしていたと思われる。それは、明治初期に日本を訪れた叔父にこういわれていたからだ。「日本はその風俗や人情はすばらしく、君臣の一致和合すること、世界無比の楽園である」と。

津田巡査は無期懲役

さまざまな思惑の中、事件は起きた。明治24年5月11日。皇太子は滋賀県大津を通行中、津田巡査に斬られて負傷した。いわゆる大津事件である。皇太子は日本入国以来各地で受けた盛大で暖かい歓迎ぶりに喜び、叔父から言われていた日本人の人情と風景に満足していた。

事件後、日本側の誠意ある対応は皇太子を安心させたが、重大問題が発生した。津田巡査をどう処罰するかである。ロシア皇帝と日本国民の双方を納得させる必要がある。当時の国内法では、外国要人に対する暴力への処罰規定はなかった。一般人への暗殺未遂事件として扱えば無期懲役が最高刑である。そのためロシア公使は激怒し、暗に日本への武力攻撃さえ示唆した。

こうした中、出田顕義司法相は「日本の皇族への犯行は死刑に処す」という刑法を皇太子に適用すれば、津田巡査を死刑に、できると考えた。

これに猛反対したのが大審院(現在の最高裁判所)の院長国児島惟謙である。

児島は幕末の天保8年、宇和島藩士の家に生まれた。尊皇思想につかれ3度も脱藩を経験している。長崎では坂本龍馬とも交わった。討幕運動や坂本などとの交流を通して、自由な意思や独立精神を身につけたと思われる。

松方正義総理大臣は津田死刑論で児島を説得した。政府側の考えは戒厳令を発して、津田を死刑にすべし、というものであった。

政府の死刑論に対して、児島はこう反論した。

「裁判官は常に独立の地位を保つべきで、行政官の牽制に従ってはならない。もし恐れや利達の望みより独立の地位を失って行政官に屈し、憲法を蹂躙することがあれば、法権の信用はたちまち地に堕ちる。」

児島の強い主張は法律学者や法曹界を動かし、津田巡査には無期懲役の判決が下る。しかし、児島は決して法律万能論者ではなかった。むしろ、徹底した人間尊重主義を貫いたことで、大審院長という権力の中心にいながら、非権力主義に立つことができたといえよう。

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