竹村男塾

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早川徳次の社会奉仕

近代日本を作った男たち 第18回

Takemura

早川徳次

シャープの液晶技術

地上デジタル放送用の薄型テレピを買いに行った時のこと。大型電器底で、どのテレビにするか迷った。そこで店員に各メーカーの特徴を尋ねると、店員はシャープの液品テレビを推薦してくれた。

理由のひとつは、液晶画面がどの角度から見ても、映像がプレたり暗くなったりしない、ということだった。実際、どの角度からでも画像は鮮やかで、正面から見るのと変わらない。他メーカーのものも多角的に検証したが、上下方向から見た映像が、液晶よりも幾分劣っているような感じを受けた。

第2の理由が、製品の部品が殆ど国産ということであった。コスト優先ではなく、日本人が作ったものにこだわる、という考え方に筆者は動かされた。現在も薄型テレビの売れ行きはシャープの液晶が先行。パナソニックのプラズマテレビが追う展開だという。

液晶は物理的には、結晶と液体の中間にある状態で、同時に結晶と液体両方の性質を併せ持っている。固体状態が有する規則性と、液体の持つ不規則性状態が合体しているのだ。この性質を利用して開発・応用されたのが表示措置(ディスプレイ)や温度計である。

世界で初めて液晶ディスプレイを開発したのは、テレビ付きデジタル時計を作ったエプソンだ。しかし、大型の民生用商品として最初に市場投入されたのがシャープの液晶テレビであった。以来、シャープは液晶技術で世界をリードする存在となった。この技術がなければ、米国のジェット戦闘機は飛べない、とさえ言われている。

このシャープを創業したのが、早川徳次である。

生家が貧しかったため、徳次はわずか2歳で養子に出されている。だが、成長しても継母との折合いは悪く、その間、ひどい虐待を受けた。小学校も2年で中退させられ、内職で稼いだわずかなお金も、継母に取り上げられた。


盲目女性に救われる

しかし、世の中は。鬼。ばかりではない。8歳の頃に近所に住んでいた自の不自由な女性行者が、徳次をあわれみ引き取って、金属加工工場へ丁稚奉公に出してくれた。徳次が成人し事業に成功した戦後になって、目の不自由な障害者のための工場を作ったのは、この女性の恩に報いることが自的でもあった。

金属加工の技術を学んだ穂次は、19歳の時、ベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳次錠」を発明し特許を取得する。このバックルは良く売れヒット商品となった。やがて徳次は独立し、自ら工場を設立した。

そして22歳で「シャープペンシル」を考案する。当初、この新商品は日本よりも欧米諸国で注目された。「シャープペンシル」発明を機に、徳次は「早川兄弟商会」を設立する。シャープペンシル事業は順調に伸びた。ところが大正12年(1923)に関東大震災が東京に大被害をもたらす。

徳次はこの震災で家族3人を失い工場も被災。一瞬にして全てを失う。やむなく徳次は大阪に移って、31歳の時、国産初の鉱石ラジオの開発に成功した。

この年(1925・大14年)、NHKがラジオ放送を始めている。徳次の作った鉱石ラジオは評判が高く、飛ぶように売れた。昭和20年。戦後の物不足とデフレ政策で経営も困難を極めた。が、屈することなくテレピや世界初の液晶電卓などを開発・製造し、今日につながる基礎を作っていく。

両親の愛情を知らずに育ち、結婚した後も妻子を失っている穂次の生涯を貫くものは何か。それは事業の目的を「社会への奉仕」に置いていたことだろう。その原点となったのは8歳の時、自分を助けてくれた盲目の女性への“感謝”ではなかったか。

日本で初めて、貧しい障害者のための工場を作り、バックルとシャープペンシルに始まる発明と事業が、徳次の「報恩と愛」を証明している。

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