竹村男塾

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伊沢修二の音楽教育

近代日本を作った男たち 第14回

Takemura

伊沢修二

高遠藩の下級武士

“うさぎおいし かのやま こぶなつりしかのかわ-”ご存知『故郷』であり。その他『朧月夜』、『われは海の子』『案山子』、『茶摘』、『春が来た』などは誰でも知っている歌である。

こうした歌は唱歌といわれる学校教育の歌である。1881年(明治14年)に最初の唱歌集「小学歌唱集」が発行され、以降各種の唱歌集が作られたが、やがて「尋常小学唱歌』に統一された。

歌詞は先にみたように教訓的内容や花鳥風月、ふるさとの風景などを表現したものが多い。音楽的には単純な拍子のものが多く、無伴奏で西洋風の歌が多い。

唱歌と共に愛された歌がある。『夕焼小焼』などの「童謡」である。童謡の歴史は深く、昔は「わざうた」といい、神が子どもの口をかりて歌わせた、という伝承がある。そのため寓意的な歌(他のものにかこつけて、それとなくある意味をほのめかす)が多い。

しかし、大正時代になると純粋に子どものための歌が作られるようになった。北原白秋、野口雨情などが歌詞を作り、山田耕筰が作曲した。戦後になるとサトウ・ハチロー、いずみたくなどが新しいタイプの童謡を作った。

さて、唱歌の発達に貢献し、かつ明治以降の教育のパイオニアとなったのが伊沢修二である。伊沢の教育上の業績は多岐にわたる。教科書の編纂、国家教育運動、師範教育、音楽教育、体育教育、吃音矯正教育、植民地教育(特に台湾)などである。なぜ伊沢はこれほどまでに教育に身を入れたのか。

伊沢は1851年に信州(高遠藩)の下級武士の長男として生まれる。父親が下級武士のため家は貧しく、糊口をしのぐような毎日であった。しかし、父親は学問好きで、詩や絵を好んだ。また、母親は学者の娘で『唐詩選』を暗唱するほどの教育があった。この母親は武士の教育を心がけ、子どもには次のように言っていた。

『お前は武士の子だ。武士の子ならば武士らしく、恥を知らねばならない-。』

米国留学と教育観

貧しくはあったが学問のある両親に育てられた伊沢は勉学に励み、20歳のとき、藩より貢進生(大学南校・東京大学入学)の指名を受ける。この時各藩から選ばれた貢進生の中には小村寿太郎(後の外相)などがいた。

南校生の気宇は壮大で、新時代のエリートとして、将来の大政治家や大軍人、大外交家を志した。伊沢も外交官になろうとしており、外国に対抗するには外交と兵力を強くする必要性を感じていた。

その後、官立の師範学校ができると、24歳で愛知師範学校長に任命される。その1年後、師範学科調査のためアメリカに派遣される。結果的にこのアメリカ留学が伊沢と音楽を結びつけることになる。

何がキッカケになったのか。それはアメリカの男女共学(教室だけでなく、指舎においても向じ)制度や、アメリカでは20歳程度の若者はまだ「少年」で、日本の7~8歳の子どもと同じ生活をしている、という西洋流のものの考え方である。これまで受けてきた日本の武士教育の一角が崩されたのである。

アメリカ流の思考法に触れる中で、最も難儀したのが音楽の学科と英語の発音であった。武士の時代に育った井沢にとっては、音楽や芸術はあまり縁があるものではなかった。そうした苦労の中で、伊沢は音楽教師・メーソンに出会う。

メーソンの影響で、音楽教育の重要性を知り、日本の学校に唱歌の導入を決意する 伊沢はこう思う。

「子供の高尚なる情操と体力の発達には、音楽や唱歌の力が大きく、日本の文化も音楽で西洋文化に並ばねばならない。」

帰国した伊沢は東京師範学校長に任命され、かつての師匠メーソンと協力して西洋音楽の導入による『小学唱歌集」を編纂するに至るのである。その後伊沢は台湾の近代教育に尽力し、台湾にも独自の唱歌を根づかせた。

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