竹村男塾

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幸田露伴の人生哲学

近代日本を作った男たち 第7回

Takemura

幸田露伴

「五重塔』に見る主我

明治維新は政治的・体制的な変革であったが、思想面においても大きな変革が起こった。西欧流啓蒙思想の流入の影響を受けて、実利主義的な思考が広まった。福沢諭吉の「学問のすすめ」や中村正直訳の「西国立志論』は大衆の心を捉え、人々に立身出世の希望をもたらした。

一方、文学面においては坪内逍遥が「小説神髄」によって写実主義を提唱した。「小説神髄」は小説の主眼を第1に人情、第2に世態風俗の有りのままを模写することにあるとした。

この手法は江戸時代の戯作(読本、滑稽本、黄表紙、人情本などの類)や勧善懲悪文学の衰退を招いた。坪内逍遥はその意味で、日本近代文学の黎明期の、実質的な理論派の作家と言えるだろう。

坪内逍遥の写実主義の影響を最も受けたのが尾崎紅葉と幸田露伴であろう。尾崎紅葉は「金色夜叉」に見るように女性的な写実主義の作風であった。幸田露伴は「五重塔』のように男性的、浪漫的な作風であった。2人は世に「紅露時代」として明治文学の一時代を築いた。

改めて幸田露伴の実績を見る。露伴は慶応3年(1867)に江戸で生まれたが、幼少期から病弱で何度も生死の境をさまよったと言われる。少年時代は東京図書館に通い、古今の文学書を読みあさった。

漢学や漢詩も学んだ。そして19歳の頃、坪内選遥の「小説神髄」や「当世書生気質」に出会い、本格的に文学への道を志すようになる。一方で、江戸時代の浮世草子作家・井原西鶴を愛読した。やがて1889年(明22)に「露団々」を発表し、文学界に彗星のごとく登場。以来『風流仏』、『一口剣』、『五重塔』などの名作を発表していく。

中でも「五重塔」は「のっそり」とあだ名される大工が様々な妨害にも屈せず、ついに五重塔を完成する話であるが、人間の非情な主我を独特の名文で描いた名作である。

惜福、分福、植福

以上に見るように、露伴は明治文学の新生面を切り開いたが、筆者はむしろ思想家としての側面を評価したい。とくに『努力論」は名文とともに独特の人生論として読まれるべきだと思う。露伴の言う「努力」とは、誰でも努力すれば出世するという、福沢諭吉の「学問のすすめ」的な努力のことではない。

人生の明暗や幸不幸をどのように考えるか、貧困から脱出し、幸せになるにはどうしたらよいか、明るく生きるにはどうすればよいか、が主要テーマである。

明治末や大正の初めの頃、露伴は事業に失敗した人、失業し貧困に陥った人があまりにも多く存在することに心を痛めたと言われる。このような人々をどう救うか、その気持を綴ったのが『努力論』である。その中心的な考え方は「人聞は気持の持ち方次第で明るく生きられる」という人生肯定論である。

例えば、運命についてこう言う。「運命が善いの悪いのと言って、女々しい泣言を言うな」。つまり、人間の幸不幸は始めから運命として決まっているものではないということである。

この「努力論』の中で、特に参考になるのが、運をつかむための3つの方法(惜福、分福、植福)である。惜福とは「福を使い尽くしてしまわない」ことである。例えば、母親から新しい衣服をもらっても、すぐに着用せず、「晴れの日」に着用すれば、旧衣も新衣もともに活きるのである。

「分福」とは「自己の得る、ところの福を他人に分かち与える」ことである二人占めはよくないのである。

「植福」は、例えば90歳の老人が庭にリンゴの木を植える。リンゴが実る頃には老人はこの世にいないかもしれない。しかし、老人にとっては、残る家族や近所の人々がおいしく食べられればよいのである。『努力論』は単なる一個人の幸福論ではなく、広く社会の人々の幸福を説く、最高の日本的哲学書と言つてよい。

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