竹村男塾

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高木兼寛の現場主義

近代日本を作った男たち 第6回

Takemura

高木兼寛

森臨外との脚気論争

明治17年2月3目、1隻の軍艦が品川港を出港した。軍艦の名は「筑波」。実験艦である。何の実験か。実は1年前の明治16年、日本と南米を回る太平洋横断の練習艦「龍驤」において171名の水兵のうち半分が脚気になり、うち25名が死亡する事件が起きた。

筑波
筑波 ↑ wiki

これを見た当時31歳の海軍医・高木兼寛は「龍驤」における水兵の生活環境や患者の発生率などを詳細に調査した結果、脚気の原因は白米中心の食事にあるのではないかと考えた。

龍驤
龍驤 ↑ wiki

そこで高木は翌年「龍驤」と同様のコースを囲る実験を行ったのである。食事は白米の代わりにパンとし、牛肉、野菜、魚・などを加えた洋食にした。

その結果、333名の水兵に殆ど脚気患者は発生しなかった。高木はこれにより、脚気の原因は栄養障害にある、と確信した。つまり、脚気は白米の摂取による特定物質の欠乏症と考えたのである。

ところが、この高木説に猛然と反論したのが、当時ドイツに留学中の陸軍霞森鴎外であった。森は脚気は病原菌による伝染病であると考え、白米、パン、麦飯の栄養学的分析を行った。その結果、タンパク質、カロリーなど、どれをとっても白米が最も優れていることがわかった。もちろん白米に病原菌はなかった。

高木と森の論争は決着がつかないまま、明治27年の日清戦争を迎える。陸軍は森の意見を入れて、相変わらず白米主体の食事を摂ったが、兵士の脚気患者は4万人に達し、400人以上が死んだ。

一方、海軍は麦飯主体の食事を摂り、脚気による死者は3名であった。それでもなお陸軍は由米をやめようとはしなかった。

そして、明治37年の日露戦争は陸軍の悲劇を決定的なものにした。陸軍では20万人が脚気になり、死者は2万8000人に達した。ロシアの兵隊からは、日本兵は酒に酔って攻撃してくるとまで言われた。

慈恵医大創設と遺訓

こうして、高木と森の論争は高木に軍配が上がった。この違いは、表面的には脚気の原因を栄養障害とみるか、伝染病によるものなのか、にあるが、本質的には2人の性格や学んだ環境からくる考え方の相違にあった、と言うべきだろう。

高木は豪放な性格で情熱家であり、自分の仕事に対して使命感を持っていた。海軍医として脚気患者を出さないことに全力を注いだ。他方、森はスマートな学究肌であるが、冷撤さや強情さを持っていた。自己の考えに国執する頑固さがあった。

2人が留学したイギリスとドイツの学問の違いもある。高木が留学したイギリスは現場主義、経験主義の傾向が強く、統計と結果を重視する。森のドイヅは最格な理論主義で実験重視の傾向にあると言える。

高木はイギリス流の現場主義で脚気に対処した。脚気の原因はよくわからないが、現に脚気患者がいることを重視した。そこでまず患者をなくすことを考えた

つまり、目の前の問題解決を優先した。そのため、栄養障害説という仮説を立てて、様々な可能性を探ったのである。その結果、海軍には脚気患者は殆ど発生しなかった。

高木がとったイギリスの経験論はベーコンやロックが唱えた思考法である。人間の知識は経験や習慣によって得られるものであり、同じことが繰り返されると真理が生まれるという。

森はドイツの実験主義から、理論によって証明できないものは存在しないという立場に立つ。白米に病原菌が発見されない以上、白米が脚気の原因であることを認めるわけにはいかなかった。

高木が自ら創設した東京慈恵会医科大学には次のようなレリーフを掲げてある。

病気を診ずして病人を診よ

この言葉は、理論も大事であるが、予測不可能な目前の問題解決もまた大切なことを教えてくれる。

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