竹村男塾

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渋沢栄一の商業道

近代日本を作った男たち 第5回

Takemura

渋沢栄一

商人の地位向上

戦国時代は明らかに日本型社会とは異質であった。戦国時代は実力や能力が全ての社会である。信長や秀吉が活躍できたのはそのためだ。

しかし、家康はこの戦国社会で苦労した結果、実力主義は日本人を幸せにしないと考え、争いを封じる社会を作った。そのための制度が長子相続制と身分を固定するための士農工商制度であった。

ところで、士農工商の一番下になぜ商を持ってきたのか。鎌倉時代後半から起こった商業は戦国時代に急速に発達した。商業は実力と才覚がものをいうので、戦国の社会に合ったものであろう。家康は早くから商業の力を知っていたが、同時に実力と競争で成り立つ商業が、必要以上に力を持つことは、武士の支配を脅かす存在であることも理解していた。

江戸時代にはじまる商業軽蔑の風潮は明治になっても改まらず、日本の商人の社会的地位は西洋などに比べるとかなり低かった。この商人蔑視の風潮を改めようとしたのが渋沢栄一であった。これが渋沢の最大の功績である。

彼が後に「近代日本資本主義の父」と言われいるのはそのためである。渋沢栄一は埼玉県深谷市に生まれた。生家は米、麦、野菜のほか藍玉の製造販売や養蚕業も営む大農家であった。彼が後に商人的な合理主義思想を持つに至ったのは、生家の藍玉商売を手伝う中で身についた、商業的才覚だと思われる。

生家が裕福のため、幼い時から読書学問に親しみ四書五経、漢学、陽明学を学んだ。中でも彼の人格を形成したのは論語だといわれる。また遼にも恵まれ、将軍一橋慶喜にかわいがられた。

おかげで、パリの万国博覧会にも出席することができた。この時にヨーロッパの先進的な産業や経済、軍事を学ぶ。特にヨーロッパ社会のエリートといわれる軍人が、商人と対等に交遊する姿を見て、日本の商人の地位向上に意欲を燃やすことになる。

傾聴という魔術

渋沢のもう一つの功績はコミュニケーション能力の重要性を世に広めたことではないだろうか。彼が晩年の頃である。米国で日本の移民排斥運動が続発したのがキッカケだ (1912年頃)。

これに怒った日本の要人達は、対米同志会を結成して米国の動きに対抗しようとした。この時渋沢はこの向志会の会長に就任するよう要請されたが断つた。喧嘩腰では事態が悪化するばかりだ、というのがその理由であった。

彼の意見は受け入れられ、会の名称も日米同志会と変わった。会長に就任した渋沢は早速米国に出かけ、排日運動の中心人物に会いに行った。が、もともと日本人嫌いのその人物は、当然面会を断る。しかし、何とか口説いて会うことができた。

面会の結果、事態は逆転した。その人物は渋沢の人物にすっかり惚れ込んでしまったのである。帰り際、彼は渋沢にこう言った。「あなたと出会ったことは生涯忘れ得ない出来事だ」。

なぜ渋沢はその人物の心を引きつけたのであろうか。天性の人柄の魅力もあったことだろう。しかし、渋沢は目の前にいる人には、どんな相手でも、どんな時でも全力を傾けて応対したという。そうした、相手を大切にする姿勢が相手の胸襟を聞かせたというほかない。

相手の言うことをしっかり開くことを傾聴というが、この意味は「あなたの言うことを、あなたの立場で聴いています」ということだ。まさに、渋沢は傾聴こそ人間関係の魔術であることを証明したのである。

このように渋沢は幼少の時からはじめた学問と、先進ヨーロッパの社会の見聞、そして傾聴能力によって、商工業の地位向上と日本経済の発展に尽力した。そして、何度も要請された大臣就任を全て断った。この渋沢を思想面から支援したのが福沢諭吉であったことから、明治の人関のもう一つの偉大さがわかるのである。

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