竹村男塾

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大久保利通の目的意識

近代日本を作った男たち 第2回

Takemura

大久保利通

盟友・西郷とも訣別

前月号で、明治政府の立役者として伊藤博文を取り上げたが、その伊藤を育てたのは大久保利通である。従って大久保は明治維新という大事業の最大の建設者である。ところが、大久保は功績の割に余り評価されないのはなぜだろうか。

大久保なしに日本の近代化はありえなかった。まず、大久保は明治維新建設に当たって、板垣退助のように「自由民権」という言葉を使わなかった。もし大久保が江戸封建体制からの脱却、というようなことを言っていたら、維新事業は成功しなかったかもしれない。

維新はあくまで「王政復古」であるという信念を持っていたと思われる。大久保の保守性が大多数の国民を安堵させたのではないか。西郷隆盛、大久保、木戸孝允を維新3傑というが、中でも大久保の思想と政治力は傑出している。

2つ自は、大久保が目的実現の強固な意志力を持っていたことである。維新3傑の中で、西郷は征韓論で薩摩へ帰って西南戦争を起こし、木戸も台湾征討をめぐって大久保と衝突し、郷里の長州へ帰ってしまった。

大久保はただ1人日本を近代国家にするという目的のために、西郷や木戸と妥協することなく、その意志を貫いた。結果として薩摩の盟友・西郷までも殺すことになる。

また、西郷と同じ征韓論を唱えた肥前の江藤新平が佐賀の乱を起こした時には、大久保はこれを徹底的に征討し、自ら臨席した裁判で斬罪梟首してしまう。かつて固い絆で維新戦争を戦った盟友でさえ、近代国家建設という目的の前には、そうせざるを得なかった。

一説によれば、大久保は西郷や木戸にかなり不満を持っていたという。明治6年の政変(閣議でいったんは決定された征韓論が、欧米視察から急遽帰国した大久保と岩倉らによって覆され、西郷が薩摩に下野した)の時、西郷は大久保の家へ挨拶に行ったが、大久保は西郷を玄関まで見送らなかった、という。

征韓議より富田強兵

大久保は例え近代国家建設という目的とはいえ、なぜ盟友・西郷を死にまで追いやったのか。これを解くことが大久保の偉大さを示す3つ目の理由である。

結論をいえば、大久保は征韓論それ自体には反対しなかったのではないかということだ。当時の世界はいわゆる帝国主義全盛の時代でありアジア諸国が欧米列強の植民地にされてしまったのは歴史が示す通りである。西欧列強自体、帝国主義でなければ自国の独立を守れなかったのである。

こうした状況下、国家を強くしなければやがて日本も西欧列強の支配下に入る、と大久保は恐れたのである。したがって大久保は、日本としてはまず国力をつけることが大事であって、征韓論はその後の問題であると考えた。

大久保がこう考える契機になったのは、明治6年に岩倉使節団に加わってドイツを訪問したことだ。大久保は後に“鉄血宰相”といわれたビスマルクに招待され、ドイツの歴史を開いた。かつてのドイツは20以上の小国に分裂していた。回りにはイギリス、ロシア、フランスという強国があって、いずれも弱小国ドイツの植民地化を狙っていた。

この時のドイツの状況は日本の幕末と同じであった。それだけに、危険な状況の中で短期間でドイツを統一し強大国にしたビスマルクの手腕に、大久保は感銘を受けたのである。帰国した大久保は強い決意で富国強兵を自指すのである。

最後は大久保が薩摩出身だが、人材登用に実力主義を重視したことだ。大久保が育てた伊藤博文や大隈重信はそれぞれ長州と肥前である。はじめ伊藤は同じ長州の木戸についていたが、岩倉使節団の外遊中に大久保の偉大さに感銘を受けたといわれる。この点は西郷の同郷人重視の人材登用法と明らかに違うものである。西郷を西南戦争に担いだのは、ほとんど薩摩の人間であった。

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