竹村男塾

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伊藤博文の指導力

近代日本を作った男たち 第1回

Takemura

伊藤博文

明治維新は革命か?

明治維新が革命であったかどうか、は見解が分かれるが、筆者は革命ではなく、ひとつのセレモニーに過ぎないと見る。そう考える理由は3つある。

一つは、明治維新は封建制度を倒して生まれたが、実はこの体制の精神は江戸中期頃からすでに失われつつあった。江戸の武士の関で広く読まれた本に『日本外史』(頼山陽)があるが、この本には「江戸幕府は一時的に出来たもの」という趣旨のことが書いてある。つまり、朝廷の方が正統なのだという認識である。
従って、戊辰戦争では江戸幕府は始めから戦意を失っていたと見るべきだろう。そうでなければ人材豊富で海軍も持っていた幕府があれほどあっけなく朝廷側に敗れるとは考えにくい。

二つは、敵(幕府側)に対する責任追及(血による報復)は、小栗上野介の処刑以外はほとんど行なわれなかったこと。だから、幕府側の有能な人材が残り新政府に貢献した。

三つは、伊藤博文の存在である。もし伊藤がいなかったら、明治政府の近代的国家作りはどうなっていたかわからない。なぜ伊藤は明治建国の祖と言えるか。
まず、伊藤が軍人ではなかった点があげられる。伊藤は農民の子で、家が貧しかったため12歳で奉公に出されたという。その後、父が萩藩の下級武士の養子となったので、伊藤も足軽となった。

維新の英雄たちは殆ど軍人として立身したが、伊藤は軍人にならず政治家に徹した。本来、農民の出であるから、普通の人なら軍人になりたがるのではないか。伊藤もその気になれば大将にもなれたはずである。

なぜ伊藤は軍人にならなかったのか。近代国家を作るには軍事よりも政治の方が上で、かつ重要である、と考えたのではないか。また、自身が政治家に徹することで、長州藩の友人・山県有朋などの軍人としての能力を見抜き、自由に陸軍を作らせることができたといえる。

政治家が新体制作り

つまり、伊藤が政治家に徹したのは、伊藤自身が明治維新は革命ではなく、政権の交代と認識し、新体制の構築は軍人ではなく、政治家が担うべきだと考えたのではないか。

伊藤が元勲としてすぐれた業績をあげることができたのは、まず天皇の信頼が厚かったことである。しかし、伊藤と明治天皇の関係は、始めからうまくいったのではない。

明治天皇は一説によると政党嫌いで、伊藤が明治33年に立憲政友会を結成したことを、快く思わなかった、といわれる。だが一方、明治天皇は正直者で金銭にもきれいな伊藤の性格を好み、何かに付けて伊藤に相談したという。

次に、伊藤の指導者としての高い使命感をあげることができる。幕末、長州藩には伊藤をはじめ吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允などの逸材がいたが、明治10年までには伊藤以外の者がすべて世を去ってしまった。また同じ頃までに薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通も亡くなった。

そのため、伊藤が「これからの日本を支えるのは自分しかいない」という責任感を持ったのは当然のことであった。

盟友の山県有朋は軍の総帥として威張っているだけだし、同じく盟友の井上馨も人の上に立つ性格ではなく、財界の利害の代弁者というわけで、本当に国家レベルの見識を持っていたのは伊藤だけだと言ってもよい。だからこそ山県など軍部を押さえることができたのではないか。

さらに伊藤が非常な「威厳」を構えていたことがある。伊藤の逸話の中でも、特に有名なのが芸者好きである。当時の芸者の話として、伊藤の前に出ると、他の政治家は皆小さく見えてしまったそうである。

明治維新という新体制を樹立する上で、日本が伊藤というスケールの大きい人物を得たことは、極めて幸運であったと言うべきだろう。

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